矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

カテゴリ: スポーツ

女子テニスの大坂なおみ選手が,昨年の全米オープンに続いて全豪オープンも制した。そしてとうとう世界ランキング1位に輝いた。
日本人選手としては初の快挙で,連日メディアも大騒ぎ。
私も決勝の試合をTV生中継で見た。この試合がまた,白熱した好試合で,ラリーが長く続いたり,ブレークの応酬があったりと見応え十分で,テニスというスポーツを観戦する面白さを再認識したものだった。

ただ,一部報道には,彼女が果たして日本人選手なのか?という論調もあったりする。もともとはハイチ系米国人の父と,日本人の母の間のこどもであり,血筋だけで言えば100%の日本人ではないかもしれない。現在は日本国籍と米国の国籍の両方を持つ二重国籍者ということになる。

しかし,日本人を母親に持つ,日本人の血を引いていることは紛れもない事実であり,彼女自身も日本国籍を持っていることにプライドを持っているように感じられる。もっとも将来,もしも国籍を選択する場面に直面した場合,果たして彼女がどちらを選ぶのかは分からないが。

ただ,どちらを選ぶにしても,彼女の意思を尊重し,テニスに集中してもらいたいと思う。そして,「日本人だから応援する」とか「日本人しか応援しない」などという了見の狭いことをいわず,純粋に,一人の有能で魅力的なテニスプレーヤーを応援するという姿勢を持ちたいものである。
彼女は日本にルーツを持つだけでなく,ハイチにもルーツを持っている。彼女を通じて日本とハイチが一つになって彼女を応援するというのも美しい姿であろう。

また,彼女の存在がこれからの新しい日本の一つの姿を現しているのかもしれない。多様性を重んじる国に日本がこれから変わっていくのであれば,もしかしたら今までにないような時代が日本にやってくるかもしれない。それを楽しめるか,怖がるかは今の日本に生きる我々一人一人にかかっている。

そうこう言う間に,2010年代最後の1月も終わりを迎えようとしている。

横綱稀勢の里が引退してしまった。
横綱昇進後,最初の場所で二連覇を達成して以降,その場所での無理がたたり,あとは,休場を繰り返して,横綱としての力強い相撲を披露することができず,現在に至ってしまった。
横綱としての連敗記録や,直近の連続休場を見て批判する人もいるが,本人を責めるのはちょっとかわいそうだろう。
そもそも,横綱昇進時の経緯も,今思えばやや強引だったかもしれない。そして,久々の日本出身横綱として,本人に過剰な期待とプレッシャーをかけた周囲や一般ファンの姿勢も問われるべきかもしれない。偏狭なナショナリズムや外国人への差別意識の裏返しによる,日本出身力士に対する過剰なひいきの感情が,稀勢の里を追い詰め,力士生命を縮めてしまったような気がしてならない。それが私は非常に悔しく哀しい。
残る2横綱も,鶴竜は今場所再び休場してしまい,白鵬も全盛期に比べるとかなり力が落ちてきた。今年中に彼らも,少なくとも一人は引退してしまうような気がしてならない。そうしたら,その後を継ぐ看板力士はいったい誰になるのか。
長く隆盛を誇ったモンゴル出身力士だが,一時期に比べると勢いがなくなってきている。そもそも,外国から幕内力士を目指して入門する力士も減ってきているように思う。有力な外国出身力士の減少で,相撲の質が低下し,相撲そのものが日本から消えてしまう事態が現実味を帯びる日が近々来てしまうかもしれない。
何だか,今の相撲界を見ていると,日本社会の縮図を見ているような気がしてならない。日本を支えているのは日本人だけではなく,外国の人々のおかげでもあることを自覚し,彼らにもっと感謝すべきなのだ。

最近、休日の空き時間に天気がいいとき、わが子とバドミントンをよくする。
交互に打ち合い、そのラリーが何回続くか記録を取っている。
最初はわが子がなかなか打ち返すことができず、5回と続くことがほとんどなかったが、このところわが子も打ち返しがかなり上手にできるようになり、ここのところは10回以上続くことも難しくなくなってきた。昨年には最高記録50回を達成。そして昨日、立て続けに64回、75回と新記録を出すことができた。
バドミントンセットの準備にはそれほど費用はかからない。100円ショップでラケット2本,シャトル一セットで計200円で手に入る。
狭い場所,車の通りの少ない裏路地でもラリーは楽しめる。しかも、ラリーは相手を打ち負かすのではなく、お互いを見ながら協力しあおうとするので、オープンな意思疎通も楽しめる。程よい運動効果も得られる。親子のみならず、夫婦、恋人同士,友人などの組み合わせでも,老若男女,性別,年齢関係なく楽しめる。
バドミントンラリー、おすすめである。

今年のプロ野球ドラフト会議は今日だった。

毎年、球団毎の戦略や、交渉権を獲得した人材の現時点での評価がいろいろ報道される。

‥が、まだプロの舞台で登板したことのない投手、打席に立ったことのない打者を、今の時点であれこれ言う意味がどれだけあるのだろうか。また、ドラフトが失敗だという言い方も、そのドラフトで選ばれた選手に対してある意味非常に失礼だろう。加えて、ドラフトの選択順位をことさら強調するのも、人々に差別意識や卑屈感を無意識に与えるようで、社会的影響を考えると果たしてどうなのかなと思う。

そもそも、ドラフト会議をショーアップするのが、おかしい。たまたまアマチュア野球が盛んな土壌があり、人々の関心が高いという事情はあるにしろ、日本国内の他の競技でこのような風習はない。外国でもここまでマスコミに取り上げられることは聞いたことがない。これが日本の世界に誇る独特のスポーツ文化といえるのであれば、このままでも良いのだろうが、何だか他人の人生の岐路を単なる見世物にしてマスコミが金稼ぎしているだけで、スポーツの本筋とは異なるように思うし、私は正直良くないと考える。

高校野球ネタが続くがご容赦を。
今年の高校野球全国大会は,大阪桐蔭の春夏連覇で終わったが,世間の注目は優勝チームより,準優勝チームの金足農に集中しているようだ。普通は優勝チームが注目されるものだが。
その理由は,金足農が近年では異色のチームだったからだ。下馬評ではほとんど注目されず(投手は良いとの評判ではあったが,打力・守備力は並みレベル),全員が地元出身の公立チーム。昨今の私立優位,打撃優位の傾向からすると,せいぜい2勝どまりかと思われていたら,3回戦では8回裏の逆転3点本塁打,準々決勝ではサヨナラ逆転2ランスクイズ,準決勝は2−1で競り勝っての決勝進出。しかも1回戦からの対戦相手はすべて私立で,春か夏の甲子園で決勝進出経験のあるチームばかり。その中を予想外の劇的な展開で勝ち進めば,地元秋田だけでなく,全国的にも人気が出るのはよくわかる。1970年代から80年代の徳島・池田高校を思わせるフィーバーだった。

このように,高校野球の夏の甲子園大会では往々にして優勝チームよりも準優勝チームの方が注目を浴びることがよくある。戦前であれば台湾の嘉義農林(1931年),戦後であれば青森の三沢(1969年),福島の磐城(1971年),愛知の東邦(1977年),大輔フィーバーの早稲田実(1980年),最近では最終回2死からの驚異の追い上げを見せた新潟の日本文理(2009年)などである。このような注目を浴びやすい準優勝チームの特徴は,以下の3点が含まれいるケースが多い。
1.下馬評はさほど高くない。2.勝ち上がり方が予想外,あるいはインパクトのある劇的な勝ち方。3.負け方が印象的(悲劇的な負け方)

優勝チームは,全部の試合を勝ち切って終わるが,準優勝チームは,最後の最後で負けてしまう分,悲劇性が強い。思えば人間誰しも完全ではないし,それ故に最後に負けてしまった準優勝チームについつい感情移入したり肩入れしたくなる人が多いのだろうか。

今年の初めに予想したとおり,大阪桐蔭が春夏連覇を達成した。組み合わせを見てから,そして対抗できると思われたチームがことごとく途中で敗退したという運もあり,それほど苦労せず優勝してしまったように,外野からは見える感じだ。もっとも,一つ一つの試合では,序盤に先制されたり接戦だったりというシーンも確かにあったが,終盤で相手に点差をつけられて負けている場面はどの試合にもなく,まったくといっていいほど危なげなく勝っていた。
しかし,決勝の相手が秋田の金足農になるとはまったく想像できなかった。対戦相手はいずれも春か夏で決勝進出経験のある強豪・有力私立チームばかり。その中を一人のピッチャーを中心に粘り強く守り勝ってきた。しかもその勝ち方も,終盤に劣勢を,逆転本塁打や逆転サヨナラ2ランスクイズなどでひっくり返す劇的な展開。ここ数年決勝どころか準決勝も進めていなかった公立,しかも野球後進地域と言われていてまだ優勝経験の一度もない東北地方,かつ農業高校といういくつものハンディを背負った中での快進撃であれば,見ている人の心は鷲掴みされてしまう。地元秋田のみならず,全国的な反響を呼んだのも十分うなずける。
決勝ではピッチャーが連戦の疲労から残念な結果になってしまったが,決勝進出に至る経緯を考えれば,この準優勝は優勝に匹敵する価値があると私は強く思う。

・・・とはいっても,今回,この酷暑の中,特に3回戦以降これだけの切羽詰まったスケジュールで試合を行うのは,不適切ではないかとも思う。有力選手をたくさん抱えられる有力私立チームと,限られた人材で何とか勝ち上がっている地方の公立チームが同じ土俵で戦うことに,とてつもない不公平感を覚えるのは私だけだろうか。もっとも,その不利な状況をひっくり返して勝ち進むドラマ性があるからこそ,甲子園は盛り上がる面もあるが,年々その確率は低くなっているように思う。(だからこそ,今年の金足農はあそこまでの熱狂を生んだのだが。)

高校野球が始まった百年前の当初は,野球を職業としていく人がいるという前提で大会は開かれてはいなかった。しかし,今の高校野球は,野球を職業として希望する人の多くが目指す舞台ともなっている。複雑なのは,野球はあくまで趣味の人,高校まででやめようと考えている人,職業ではなく,大学進学や就職の手段として考えている人など,目的は人によってまちまちである。そのような多種多様な目的の人が集まって一つの大会が行われると,いろいろ矛盾が出てくるのは火を見るよりも明らかである。
また,観客や学校の考え方も,よく言えば多種多様,悪く言えばバラバラである。野球そのものを楽しむ人,ドラマ性や感動を楽しむ人,こどもの成長過程を楽しむ人,単に話のネタとして消費する人,金もうけ,学校経営の安定化を求める人,さまざまな思惑が複雑に絡み合っている。これに,主催者の新聞社の利権や思惑まで加わり,何かを変えようとしてもあちら立てればこちら立たずとにっちもさっちもいかなくなっているのが現状に思える。

100回というせっかくの区切りの大会の改革の目玉が,タイブレークの導入のみで,過去活躍した元選手の連日の始球式と,臨時の出場チーム数拡大ぐらいで終わってしまったのが悔やまれる。次の重要な機会は,2020年,予定どおりであれば再来年夏開かれる東京オリンピックの時の102回大会になるのだろうか。スポーツイベントのあり方,高校野球のあり方について本当に真面目に考えたいものである。

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