矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

タグ:こども

今日はクリスマスイブ。平成最後のクリスマスイブは,天皇誕生日の振替休日で日本も休み。
今年を最後に,クリスマスが土日に重ならない限りは,日本ではのんびりとクリスマスを祝うことは当分できないのだろうか。

そもそもクリスマスとは,救世主イエス・キリストの誕生を祝う日。
救世主というと,いきなり力強い大人がどこからか登場してくるイメージがあるが,イエス・キリストは,普通のこどもと同じように,母親マリアの胎内から,赤ちゃんとして生まれた。
そして,普通のこどもと同じように成長し,大人になった。
決して自分のこどもだからといってえこひいきすることなく,むしろ馬小屋という衛生環境劣悪な中で誕生したということ。
そこに,一人ひとりの人と共に歩もうとする救世主と,神の我々に対する思いが表れているように感じる。


世の中いろいろ不安定である。世界政治の状況もきな臭く,金融市場も株価が暴落し,行く末に暗雲が立ち込めている。しかし,そこにまた救いも込められているのかもしれない。
クリスマスが北半球ではいちばん夜の長い時期,闇深き季節に行われることにも,意味があるのだろう。
闇に負けず,クリスマス本来の意味をかみしめながら我が子にやってくるであろうサンタクロースを待ちつつ聖夜を穏和な気持ちで過ごしたものである。


我が子は最近,伝記まんがに夢中だ。
図書館で手当たり次第に借りてきては,空き時間には必ず読んでいる。
親としては,本当は活字の伝記を読んでほしいところではあるが,まだ文字の多い本は抵抗があるらしい。もっとも,活字の本で内容の薄い,下品でくだらないものを読むよりは,しっかりした内容の漫画を読む方がはるかに良いのだが。

我が子につられ,改めてまんがの伝記を読んでみるが,いろいろ再発見があって楽しい。
まず,伝記になるような人物は必ず,こども時代に何らかの才覚を表していること。
そして,親がその才覚を認め,適切な環境を与えていること。
親は,結構いい加減だったり,教育熱心すぎて人間としておかしくなっている人も多いこと。
親以外の人物との貴重な出会いがあること。
女性の場合は,とにかく子ども時代に本が好き,勉強が好きで得意だったこと。
・・・などなど。

こどもにとっては,伝記を読むことは自分のこれからの生き方を学ぶ良い機会であるが,
親にとっても,伝記を読むことはこどもの育て方や教育の仕方の良き道しるべとなる。

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日本の街中は今日から一気に、クリスマスモードから年末モードに変わる。店には正月準備のための品がずらりと並び、店員の声が一段と大きくなる。
…私としては、もう少しクリスマスの静かな余韻を味わいたいところなのだが。単なる年の瀬の一イベントではない、本来のクリスマスの意味を考えたい。
 全知全能の神がなぜ、我が子を、人間のこども、つまりいちばん弱い存在としてこの世に遣わしたのか。しかも馬小屋という、本来の人間が生まれる場所としてはふさわしくない、みすぼらしいところで誕生したのか。全知全能の神ならば、最初からたくましく頑丈な大人をスーパーマンの形でこの世に送り出し、一気に諸問題を奇蹟の力で解決してさっさと悪を片付けることだって出来る。それをせずに、しかも30年間、普通の人間として地道に生活し、その後の数年間の活躍後、刑死しなければならなかったのか。刑死を避けようとすれば、全知全能の神のこどもなら出来たはずなのに、なぜしなかったのか。そして、復活し、天に昇り、今なお私たちの心に生き続ける。

毎年クリスマスを祝い続けられているのは、2015年前の出来事があったからこそである。年末年始の諸行事に忙しくなる今こそ、クリスマスの本当の意味を考え、味わい続けたいものだ。

一日遅れだが、メリークリスマス。

こどもに何の習い事をさせるか。そしていくつさせるか。
これがなかなか悩ましい問題である。
親が習わせたい,あるいはこども本人が習いたいものがたくさんあっても
時間とお金は限りがある。
普段の学校の時間の他がすべて習い事で埋め尽くされてしまうと,
たとえいくら本人が好きでやっていることであっても,消化不良を起こしてしまうだろう。

それに,習い事も,通っている先だけで終わる話ではなく,内容によっては自宅で練習したりすることも必要だ。

習い事に励むことは,たとえその習い事で身を立てることはなくても,生きていく上でいろいろ応用してより豊かな時間を過ごしていくことにつながると思う。が,こどもの時にしか味わえない,自由な時間を,習い事だけで埋め尽くして,窮屈な思いばかりさせたくはないとも親の自分は思う。

理想を言えば,芸術(音楽/美術)系から一つ,体育系(体操/水泳/球技等)から一つを選択して習わせたいものだが。低学年の内は,教室までの送り迎えも親がかりが求められるこのご時世,親の負担も月謝のみならず,体力的にも結構かかる。本当に悩ましい。

今日は母の日。娘も彼女の母,つまり私の妻に対して何か贈り物を準備しているようだ。
ふと思ったのだが,日本において,ひとりの女の子が一生の間で母親になれる確率というのは果たしてどれくらいなのだろうか。
単純計算すると・・・女性が結婚する確率×既婚女性がこどもを産む確率 で算出できるだろう。
だいたい9割ぐらいの女性が一生のうち一度は結婚するらしい。また,こどものいない夫婦というのは5組〜10組に一組いるらしい。
これから考えると,0.9×0.85=0.795 おおよそ80%となる。
5人に4人は母親になるという計算になる。逆にいうと,5人に1人は母親にはなれないという表現もできる。
諸外国と比較するとどうなのだろうか。この確率を比較すると,少子化の真の原因がわかり,対策も立てやすいと思うのだが。

今日は子どもの日。この日になると決まって15歳以下の人口が年々日本では減っていることが報道され,少子高齢化を嘆く論調がメディアを賑わす。

私はいつも思うのだが,「少子化」と「高齢化」を一緒くたにして論じるのはおかしいと思っている。確かに,日本全体の人口構成を考えれば,将来国を支える若くて元気な人々が少なくなり,体の機能の衰えた人が割合として増えていく傾向を心配する気持ちは理解はできる。しかし,「高齢化」を問題・否定するのは,人々が長生きすることを否定することにつながるのではないか。人間は生きている限り確実に年を取る,つまり「高齢化」するわけであり,「高齢化」するということは,生き続けてきた勲章であるのだ。「高齢化」を否定するのは「生命」を否定することになると思う。

問題にすべきは「少子化」であるが,これを論じるにも慎重にしないといけない。「今の若い人は結婚しない,子どもを産もうとしない」と嘆く人も少なくないのだが,多くの若者は結婚を希望し,子どもも平均2人は欲しいと思っていることは覚えていて欲しいと思う。希望していても経済的な事情,身体的な理由で結婚・出産をしたくてもできない人も相当数いるのだ。そのような事実があるにも関わらず,人口統計やメディア上の論調に乗じて,今の若者を他人事のように批判するだけでは,若者の心を傷つけるだけで何の解決にもならない。本当に少子化を憂えるのであれば,現在享受している自己の利得を削ってでも,将来への投資としてこれから結婚・出産する世代および現在子育て中の世代への支援に物心両面で回すべきだと思う。

「少子化」が問題なのは,確かに将来の人口構成もそうなのだが,私はむしろ将来に対する国民の不信,諦めの気持ちの表れなのではないかと危惧する。
地球環境の破壊,資源の枯渇,国際情勢の不安定化,治安の悪化,教育水準の劣化,・・・メディア上で流れるニュース報道は気持ちを暗くさせるものばかりである。このような社会に次世代として我が子の生を預けていいのかと不安に思ってしまうのも無理はないと思う。
しかし,どのような時代であっても,人間は知恵を出し合い,協力し合って危機を打開してきたからこそ,今まで人類は生存の歴史を重ね,命のリレーをし続けて,現在があるのだ。かつては核戦争の危機,石油禁輸の危機もあったのに,現にこうして人間は地球上に存在させてもらっている。この事実を忘れずに,将来に対する希望と勇気を持ちつつ,日々自分に与えられた能力を生かして,少しでも社会に恵みと喜びを作り出そうと一人でも多くの人が思い行動していけば,将来は決して暗いものではないはずだと思っている。

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