矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

タグ:オウム真理教

【平成六年(1994年)】
昨年から一転,酷暑と水不足に悩む夏。
自社連立政権発足。広島アジア大会。大江健三郎ノーベル文学賞受賞。
イチロー選手がプロ野球シーズン初の200安打越え,最多安打記録214達成。
リレハンメル冬季五輪 複合団体日本連覇。
関西国際空港開業。
松本サリン事件発生。
【平成七年(1995年)】
阪神淡路大震災発生。地下鉄サリン事件発生。オウム真理教幹部逮捕
野茂英雄投手メジャーリーグデビュー。
Windows95発売。
超円高1ドル80円台切る。
東京と大阪で無党派知事誕生。
【平成八年(1996年)】
O−157食中毒猛威。
在ペルー日本大使館籠城事件
欧州で狂牛病騒動。
アトランタ五輪 日本不振。
【平成九年(1997年)】
香港 イギリスから中国へ返還。
ダイアナ元皇太子妃 交通事故死
山一証券倒産
神戸連続幼児殺人 酒鬼薔薇事件
サッカー日本代表 アジア予選初の勝ち抜け
秋田新幹線 長野新幹線開業
【平成十年(1998年)】
長野冬季オリンピック開催
サッカー日本代表 ワールドカップ初出場
和歌山毒カレー事件
明石大橋開通
映画監督黒澤明氏死去

・・・いろいろありました。

今月,麻原彰晃教祖をはじめ,幹部ら,全部含めて13人の死刑囚の死刑が執行された。ひと月で13人の死刑執行は日本では戦後初とのこと。
地下鉄サリン事件をはじめとした一連のおぞましい事件を思えば,それ相応の処罰や償いは彼らはすべきだとは思う。が,それが死刑という形が果たして最善だったのかというと,議論の余地は多いにあるだろう。
彼らがなぜあのような事件を起こしたのか,その原因究明が中途半端なままで彼らに説明の機会も与えず,一方的に国家が彼らの命を奪うのが果たして適切だったのかどうか。
被害者や遺族にとって,彼らの起こした事件は未だに許しがたく,怒り憤りが収まらない。しかし,彼らが死刑という形でこの世から存在を失っても,これで心がすっきり晴れたのかどうかは定かではない。自分と親しいかけがえのない大切な人が戻ってきたり,元気に回復することは残念ながらない。いちばんの慰めは,同様の事件が今後繰り返して起きないことであり,親しい人の犠牲が多少なりともその一助になることではないかと思う。それが,彼らの死刑によって慰めが得られているのかどうか,は正直私には分からない。
死刑制度は,全世界的には廃止の方向に向かっている一方,日本では,国内世論が処罰感情や,犯罪の抑止効果があるという思いから死刑制度を支持しているために,なかなか死刑制度の是非が議論に上らない。
オウム真理教の起こした事件は,確かに言語道断で筆致にしがたいほど酷いもので,極刑に値するものだとは思う反面,何も事件に至る背景が明らかにされないまま,闇に葬ってしまったことについては今の政府の無視できない反省点であろう。
むしろ,今の国会のあり方,西日本豪雨での初動対応の酷さ,不公平な人事,国民・有権者に対する傲慢軽薄でふざけた態度は,麻原彰晃に通じるものが多々あるように思う。そういえば,麻原彰晃も,現首相,ついでに現財務大臣も,「ア」ではじまり「−」で終わる名前だ。

麻原彰晃氏の死刑ついでに(ピー)以下自粛。

ブログネタ
オウム真理教 に参加中!
昨日,高橋克也容疑者が逮捕された。今年元旦の平田容疑者以来,3人の指名手配者がすべて今年に入って立て続けに逮捕されたことになる。
思えば地下鉄サリン事件以来,既に17年もの年月が経過している。17年前といえば,阪神・淡路大震災が発生した年である。東日本大震災が発生して1年が経過したこの時期に,オウム真理教関係者の指名手配犯がようやく全員逮捕されたことは,単なる偶然なのだろうか,それとも何らかの意味があるのだろうか。

それにしても,オウム真理教とはいったい何だったのだろうか。何を信じ,何を目指していたのだろうか。
衆議院選挙に大量に候補者を立てたり,大学にもぐりこんで信者を獲得しようとしたり,省庁を内部に作ったり兵器のようなものを作ったりして国家ごっこしていたり,・・・大の大人が大量のお金と資源と人間をつぎ込んでするにはあまりに幼稚で稚拙なお遊びだった。
仏教とは,現世は空しいものと悟り,現世にこだわることを悪と考え,ひたすら人智の完成を追い求める宗教ではなかったのだろうか。それが,金銭への欲,権力,富,名声への欲丸出しでは,お釈迦様は悲しみ,怒りを通り越して,呆れ果てているに違いない。

「金銭の欲は,すべての悪の根」,金銭や権力・名声自体は中立的なものであるが,それだけを追い求めるところに悪が潜むことは心したい。どんなに立派なことを訴えていても,どこかに「金銭欲」の匂いがちらつくのは,本物の宗教とはいえない。
「正義,信心,信仰,愛,忍耐,柔和」これを第一に求め,「金銭」他この世の価値観で上とされるもの以上の,真に価値あるものを提示し,追い求めるのが本物の宗教であろう。「金銭」は大事ではあるが,「金銭」それ自体が大事ではない。「金銭」はいわば単なる道具であり,道具を使う人間の方がより価値があり,また,その人間の様々な考え・思いを統括して普遍的に支えるものがより価値のあるものであるはずだ。なかなかこれは日常の生活に追われると見落としやすいものであるが,本当はもっとも大切なものであるはずだ。

このページのトップヘ