矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

タグ:人生

今日,大学時代の同窓会に参加した。
幸い,同窓会の幹事役を好んで引き受けていろいろやってくれる人がおり,その方の尽力で,5年に一度の頻度で同窓会を開いている。
今回集まったのは,同級生65名のうち,15名。出席率23%。
なお,残念ながら2名が亡くなっているので,参加可能な人に絞っていうと23%。
前回は25名集まっていた。それぞれ家族や仕事で責任が増え,なかなか参加が難しくなっている部分もあるだろうが,その中でこの参加率はなかなか優秀に思う。

お互いの近況報告を交換し,旧交を温める貴重なひとときであった。
仕事も地位も,家族形態もさまざまで,話をしていて非常に楽しかった。
学生時代はいろいろはちゃめちゃだった奴が,今では要職について部下や学生等を指導する立場についていたりしている様子を見ると,昔の姿とのギャップがおかしく笑ってしまう。
家族形態も,思ったより離婚経験者が多く,さまざまな修羅場を潜り抜けて,貴重な人生経験を踏んでいる人が結構いたことに改めて新鮮な驚きを覚えた。
こどもが就職や大学受験などを控え,その悩みを共有したり,あるいは大学や企業に勤めている人が,同窓生の子息の青田買いをしようとする様子なども,ほほえましい反面,今の時代のせちがらさも見え,少々切ない気分も味わった。

同窓生が,それぞれの人生を,いろいろ苦悩を抱えながらも,それでも前向きに歩んでいる様子をうかがえ,このところ様々な難題が一気に降りかかって苦悶していた自分にとっても,かけがえのない貴重なひと時となった。人生の多様性というのを改めて実感した。


今日は我々夫婦の結婚記念日。今年で結婚15周年。「水晶婚式」というそうだ。
15年、いろいろなことはあったが、基本的には仲良く楽しく夫婦生活を送れたと思う。結婚5年目にこどもも一人恵まれた。その子も今は小学四年生。月日が経つのは早い。
気付けば平成時代も残り最長8ヶ月弱。私にとって平成時代は、前半が独身時代、後半が家族の時代にあたる。感慨深い。

実は今、仕事の面で、難しい立場に置かれ、今後の人生を左右しかねない厳しい決断を迫られている。そのことで悩み考え込む日々を過ごしている。この状況に加え、台風、地震、酷暑と天災続き、心身ストレスに溢れ、心休まる時がない。

社会の価値観は、その時の情勢により変化する。一方で、個々人の価値観は、その人の育った時代、環境により様々だ。個人が価値観を変えるのは、その人の過去を否定する作業が必要な分、なかなか困難だ。社会の価値観と個人の価値観が異なるときは更に、その葛藤が増す。
これからの人生をどう生きていくべきか、変えるべきことと、変えてはならないことと、正しく判断して、残りの与えられし時間を歩みたいものだ。

今年も今日ではや二週間。すでに一年の24分の一が過ぎようとしている。
一年を一日と考えれば,既に一時間が経過してしまった。といってもまだ残りは23時間はある。

多少遅くなったけれども,今年の私の考えていたモットーをここに発表する。
四つの漢字で『再』,『整』,『備』,『楽』。
『再』は「再開」,「再会」,「再挑戦」の意味を込めた。
この年になると,新しいものへの挑戦よりも,過去に一度挑戦したが失敗したり,時間やお金が足りなかったりで諦めていたことに対して再度挑戦する年としたい。こどもも大きくなり,以前よりは手がかからなくなってきたことだし,少し親でない自分の部分も見直していきたいものだ。
『整』は「整理」「整頓」の意味を込めている。
身の回りの整理整頓をしていきたい。住環境や職場環境などもそうだが,自分の内面についても整えていきたいものだ。余計な事柄に心を奪われることなく,本当に必要なことに精神を集中し,不要不急なもの,有害無益なものは潔く整理していきたい。
『備』は「準備」「備え」の意味を込めている。
自分ももう結構な年齢である。大昔なら老人であったり,この世から完全引退しているような年齢でもある。来るべき次の人生ステージに向け,いろいろな準備を本格的に始めていきたいものだ。また,日常生活の中においても,準備を入念にした上で何事も取り組んでいきたいものだ。慌てて取り掛かり失敗を積み重ねる失態は,この年齢でするのはさすがに恥ずかしいものである。
『楽』は「楽にする」「楽しむ」「楽しませる」の意味を込めている。
物事の進め方を見直し,可能な部分はできる限り楽にするよう合理的な方法を採用していきたいものだ。そして浮いた時間を,自分の人生として大いに楽しみ,また,隣人を楽しませるような過ごし方をしていきたいものである。


世間でもてはやされるのは,いかに「うまく生きていくか」のノウハウばかりのようだ。
いかに手際よく,役に立つ知識を得,効率的に稼げる職業に就き,人より優位なポジションにつき,他人にうらやましがられるような暮らしをし,・・・・
しかし,それで本当に人生,心底から楽しいのだろうか。充実した気持ちで日々を過ごすことができるのだろうか。
たとえ,うまくいかなくても,失敗ばかりでも,本当に好きなことに打ち込み,その結果,隣人に喜びや楽しみを分け与えることができれば,たとえそのために恵まれない境遇におかれていたとしても,きっとその人の人生は真の意味で豊かで実り多いものだったのだろうと思う。
思えば,伝記に残る偉人たちの人生は,うまくいった出来事の裏に,その何倍,何十倍もの悩み苦しみがある。しかし,実は当の本人は,他者から見るほどそれほど悩みや苦しみを感じず,むしろそれをすら喜びや楽しみに変えて力強く与えられた生き方を満喫しているようにも感じる。

我が子は昨日から小学三年生。勉強も,理科・社会が始まり,算数では割り算も始まったりして,一段と内容が難しくなってくる。それらを難しいといって逃げるのではなく,乗り越えた先の豊かな世界があると信じ,勉強の過程を楽しんで日々過ごしてほしいと思っている。
「うまく生きよう」とせずに,自分の好きなことにとことんこだわり,そこから与えられた力で自分の人生を切り開いていく「あつく生きる」姿勢を我が子は持っていてほしいものである。

プロ野球選手の野球賭博のみならず,バドミントンの有望選手ま闇カジノに手を出していて,日本代表の座をふいにしてしまった。
一連の賭博事件が,スポーツの世界に暗い影を落としている。

スポーツの世界は,勝利と敗退で天と地ほどの違いがある厳しい世界。
そのような世界では,まさに仕事そのものが賭けのようなものである。
賭博に現を抜かす心身の余裕はないと思うのだが。
それとも,そのような厳しい世界に身を置きつづけると,逆に感覚がマヒしてしまうのだろうか。

あるいは,金が絡まない勝負事だと,刺激がなく退屈なのだろうか。
自分の本来のグラウンドでの勝ち負けには,心が入らなくなってしまうのだろうか。

自分が得意とするスポーツを始めたばかりのこどものころを,彼らには思い出してほしいものだ。
自分の参加したスポーツで勝利を収めたときの嬉しさ,負けたときのくやしさ。
そのときの心の純粋な動きを忘れないでいれば,自分の心身を滅ぼすような違法賭博に染まることは
ないはずだと思うが。

もっと,純粋に自分のスポーツを愛し,楽しみ,人々を導き,社会に才能を還元して欲しいと彼らには願うものである。

「現実を見ろ」「現実を知れ」と大人はいう。
「君の考えは理想的過ぎる」という大人もいる。

このセリフをいう大人に限って,魅力を持った人はいない。

夢や理想だけでは生きていけないのは確かだ。
でも,夢や理想を持たずに生きる人生に,意味はあるのか。
どんな夢や理想だって,それ自体の価値はある。
夢や理想がなくては,生きる気力は湧き出てこない。

現実が厳しいのも確かだろう。
理想が現実に負け続けることも多くある。
でも,理想を持って,現実と格闘して,負けたとしても,
格闘した事実と,その経験は必ず人生上の財産になる。
それが今後の人生でどのような生かされるかは
人間の英知では分からないが。

夢や理想がかなわないからといって,
夢や理想を持たず,いや,
夢や理想を持つことを忌み嫌い,
ひたすら現実に追随することに汲々とする人生に
何の意味があろうか。
現実と格闘することを放棄し,いたずらに無意味な時間を貪った結果,
人生を終えるときに感じる空しさはどれくらい寂しいものになるのだろうか。

現実に勝つことは素晴らしいが,勝利の実現は容易には達成できない。
そこまでの過程,いかに現実と格闘し続け,負け続けるか。
負けても負けても,より良い負け方を重ねていくか。
その積み重ねが,時には勝利を生むことがあるだろうし,
タイミングを変えた形で,大きな花を咲かせることもあるだろう。
そう信じ,夢や理想を持って格闘し続ける覚悟が必要だ。

現実との格闘を放棄し,完敗,不戦敗の人生を歩む人間にはなりたくない。


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