矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

タグ:個性

「みんな」がいいというもの。
「みんな」がすばらしいと思うもの。
「みんな」が大切だと思っているもの。

・・・それが本当にいいものか?
   本当にすばらしいものか?
   本当に大切なものか?

本当にいいもの,
本当にすばらしいもの,
本当に大切なものは,

「みんな」が見落としているところに
実はあることが結構ある。

自分がいいと思うもの,すばらしいと思うもの,大切だと思っているものが,
「みんな」と違うからといって,あわてたり落ち込んだりする必要はない。
それこそが個性であり,ゆくゆくは自分自身の強みになっていく。
そして,場合によっては,あとで
「みんな」がいい,すばらしい,大切だ,
と評価してくれることもある。

だから,「みんな」に負けず,
自分自身を大切に生きていってほしいものだ。


秋に運動会を行う学校では,運動会の練習たけなわの季節である。
わが子が通う小学校では,特殊事情により,今年は今週土曜,秋分の日に運動会が行われる予定だ。
毎日,マスゲームや入退場などの練習で忙しいらしい。

そういえば,昨今は,運動会での組体操の事故が相次ぎ,問題にもなっている。せっかくの運動会が,怪我でその子のその後の人生を狂わせるような事態になっては悲しい。
そもそも,運動会で,マスゲームや組体操の要素は必要なのだろうか。徒競走や,騎馬戦・玉入れ・綱引きのゲームだけでいいのではないか。運動会でもっとも準備に時間を費やすのはマスゲームだろう。貴重な授業時間を運動会に費やす意味が,現代どれだけあるのかとも思う。

諸外国で,日本の運動会にあたる学校での類似行事はあるのだろうか。私は正直聞いたことがない。
また,学校の運動会では,地域の有力者(市長,議員)などの来賓が必ずいて,マスゲームなどはその来賓の方に披露をする形で行われる。どうも,その光景は日本のお隣の独裁国家を思わせる部分もあったりして,違和感さえ感じる。

運動会の学校における意味を考えたい。とかく個人より集団の秩序が優先される学校で,運動会がその風潮を強化している部分があるように思う。もっと個人個人の個性を尊重するような,民主的な運動会はないものだろうか。

個性的な人間,何かきらりとしたものを持つ人間は,往々にして付き合いにくかったり,何か一癖二癖あるものである。常人にないものを持つから,そうなるのはある程度はやむを得ない場合がある。
付き合いやすい人間というのはその反面,凡庸でそれほど面白くない人物の場合がほとんどだ。もっとも,面白さというのは人によって異なってくるとは思うが。

付き合いやすい人とばかり付き合っていると,確かに楽ではあるが,そればかりだと,人生に張りがなくなり,自分自身がつまらない人間になってしまうかもしれない。まぁ,つまらない人間になってはいけないという決まりはないから別にいいのかもしれないが。

ただ,付き合いにくい,めんどくさい人間がすべて面白い人間かというと,そうとも言えないところがあるのがまた辛いところではある。めんどくさい人間が,実は何も大したものを持ってなかった人間だったら,悲劇である。しかし,そのような付き合いによって,場合によっては自分が面白い人間になってくるかもしれない。

人間というのは,人間によって磨かれて成長していくものなのだ。めんどくささから逃げてばかりではなく,時には勝負に出て,面白さを得るために,あえてめんどくささを買って出るくらいの勇気が必要なのかもしれない。

そんな取り留めのないことを思う,鈴虫の鳴き声を聞きながら過ごす秋の夜。

「一億総活躍」
日本の人口は今一億二千万人台後半のはずだが,二千万人余りの人は無視しているのか・・・。
というのはともかく,
「一億総〜」という表現はどうも引っかかる。

昔言われていた言葉は,「一億総ざんげ」「一億総玉砕」「一億総白痴化」等々・・・。
戦前は,朝鮮半島・台湾などの外地を含めた人口が一億人だったし,戦後の高度成長期に,日本本土の人口が一億に到達している。このことから,「一億」というのが「日本人全員」という意味で使われているのは容易に察しが付く。

なぜ「一億総〜」という表現に違和感を感じるのか。それは,この表現が,日本という国を構成する国民一人ひとりを,かけがえのない一個人として見ているのではなく,単なる国家の従属品という塊でしか見ていないような感じを与えているからだろう。安易にこの「一億総〜」という言葉を使う人に対して,私はその人の人間観,哲学を疑いたくなる。その人も一介の一国民であるにも関わらず,少々高い地位に縁あって就いているだけなのに,傲慢なそぶりで立ち振る舞っているその人の姿を見せられていると,怒りを通り越して,哀れにさえ思えてくる。

「一億」という数字は,「一」という数字,それもいろいろな個性をもった「一」が多く集まって,十の八乗の数あつまって,やっと成り立つ数字であることを忘れてはならない。自分も「一」,あなたも「一」,隣のおじさんも「一」,隣町のおばさんも「一」,総理大臣も「一」,赤ちゃんも「一」,その多くの,様々な「一」を大事にしていく姿勢が,どうも「一億総〜」という表現には欠けている気がしてならない。

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