矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

タグ:戦争

今日11月3日は,文化の日。もともとは明治天皇の誕生日であったが,太平洋戦争敗戦後は,「文化の日」に名を変えた。そして,11月3日は現行の日本国憲法が公布された日でもある。
今年は公布から71年。(そういえば,71も11も3もすべて素数だ。今年は2017年,平成29年。2017,29も素数である。)
それはさておき・・・

先月下旬に行われた衆議院選挙は,野党の分裂により,漁夫の利を得た与党が勝利。とはいっても,公明党は議席を減らし,自民党は現状維持。野党の中では,立憲民主党のみが議席数を伸ばした。
その結果,いわゆる改憲勢力は3分の2以上の議席を衆議院で獲得し,憲法改定の発議をできる状況を維持することとなった。もっとも,改憲勢力といっても,自民党と公明党の憲法改定への意思はずれがあり,野党の中の改憲勢力も温度差がある。このままおいそれと憲法改定に一直線になるとは思えない。

憲法改定となると,どうしても憲法9条が議論の中心になってしまう。「他国が日本を攻めてきた」ときを考えると,「戦力を保持しない」と謳っている9条に文面通り固執すると,自衛すらできず不安に思う気持ちは率直に言ってある。が,他国を武力で攻撃するということの現代社会における意味を考えると,果たしてどうであろう。戦争を遂行するには莫大なお金が必要である。そして,莫大なお金を使うだけの効果・見返りが得られる場合に限り,戦争は発生する。昔は領土や資源の確保で,戦争はそれなりにペイするものであったが,現在は投資効果はほとんどないに等しく,そのため世界中を巻き込む戦争は発生していない。起こるとしても,国家対国家ではなく,テロか小規模紛争ぐらいであろう。となると,9条を改定してまで,対国家の戦争のための戦力を持つ必要は本当にあるのかとも思うのだが・・・。

戦争を起こしたくて戦争をする国家は,21世紀の現代にはないと思う。むしろ,やむを得ず,自衛のために戦争をしてしまうケースばかりなのではないかと思う。であれば,戦争が発生するメカニズムを研究・分析して,戦争を予防するような行動を国の枠を超えて全世界で協力していけば,戦争は起こらず,そして戦力を持つ必要はなく,軍事に費やしていたお金を教育・医療など,建設的で平和構築に有効な分野に投資していくことで,全世界は幸福に近づくのではないかと思うのだが。そして,そのような方向に世界を導く資格と能力は,我が日本には十分あると思うのだが。憲法9条改定に拘泥する代わりに,こちらの方に力を注いだ方が国内外の評判を得ると思うのだが。

なお,憲法を変えることを「憲法改正」と巷では表現されているが,「改正」とは,誤っているものを正すときに表現するものである。現在の憲法が誤っているかどうかは誰が判断しているのだろうか。一方で,「憲法改悪」という表現も一部ではされている。
憲法を変えることで良くなるか悪くなるかは,一方的には言えないと思うので,中立的な立場でいうならば,「憲法改定」が正しい表現だと思うのだが。

ニュースというのは,往々にして悪い内容が多いものである。それは百も承知なのだが,昨今のニュースはその悪さの度合いが以前にも増してひどくなっていると感じるのは私だけだろうか。
悲しい事故・犯罪,一向になくならない戦争・テロ,国内外政治家の聞くに堪えない暴言・失言,不祥事,・・・
それらのニュースを見聞きするだけで病気になってしまいそうだ。
もっとも,これだけそのような報道が多いということは,裏を返せば,世界に起きている事実が誠実に報道されているという証拠ともいえる。本当に現実に起きている出来事が,何らかの見えない力が働いて何も報道されなかったり,あるいは歪められて真実とは異なる形で報道されるようになると,これはこれでもっと問題になるが。

それにしても,病気・事故・戦争・犯罪,・・・これらを,完璧に防ぐことは無理にしても,減らすことはできないものなのか。
物事には原因と結果が必ずある。原因を把握し,病気・事故・戦争・犯罪の原因となるものを根本からなくす(あるいは減らすようにする)ことと,発生した病気・事故・戦争・犯罪に対して,その刑罰を厳しくしたり発生した事象を軽減・緩和させることの2通りの対処方法がある。
最近の世界や国・社会の動きを見ていると,後者の対処療法的な行動の方が多く,前者の,そもそもの原因を追究し,根本原因をなくす動きが少ないように感じる。
これは,対処療法的な行動の方が即効性があり,また,経済理論から考えるに,その方が,いやな言い方をすれば「儲かる」からだろう。対処療法は,いくらでも考えることは出来,また人々の目前の欲求に対して即座に回答を提示しやすい。
一方,根本原因は,おおよそ元をたどれば一つであり,それを変えるのは人間が人間である限り,難しいのかもしれない。満たされることのない欲望,ゆがんだ感情,孤独,・・・・。それらを解消・軽減するためには何をしたらいいのか。人間の目に見えるものを用いても,限界があるのだろう。

・・・・果てることのない,満点の回答のない問いに対し,人間は考え続けていかねばならない。当座の暮らしを守りつつも。そうして春分後最初の満月の夜は更けていく。

幸せな人,満ち足りている人は決して犯罪を犯さない。
また,犯罪を犯すことを心底望んで人生を送る人もいない。
何らかの変な力が働き,不幸な環境の下で満たされない思いや歪んた感情に苛まれた人が,時に犯罪に手を染めてしまうのだ。

幸せな人,満ち足りている人が大半を占める国は戦争は起こさない。
戦争を起こす動機がないからだ。
戦争を起こさないようにするためには,戦争を起こす不利益を思い知らせることと,戦争を起こす動機をなくすこと。
戦争を起こす不利益は,まともな判断力を持った普通の精神状態の人間なら,常識的に分かっている。
多大な人命を失い,費用や資源を失い,世界世論からの支持も失い,得るものは限定されたわずかなものだ。
この事実を,世代を超えて根気よく教育していければよい。
後は,戦争を起こす動機をいかになくすか。
この世界で生きることの価値をいかに,一人ひとりに見出させていくか。

・・・「シリア難民」「安保法案可決」に関し,思うことが多い2015年9月もまもなく終わり。月が変われども,年を経ても,ずっとずっと考え続けていきたい。実現可能な正解はすぐには見つからなくとも,より近い,実現可能な最適解はあると信じつつ。


ブログネタ
新国立競技場、どの案ならよかったと思う? に参加中!
新国立競技場の建設計画が白紙に戻った。
過去の大会と比べても段違いにコストのかかるデザインでは,見直しもやむを得ないだろう。
しかし,当初は既存の施設を極力利用する形で,コストのかからないオリンピックといわれていたはずだが,
どこでどうボタンを掛け違えたのか。

だいたい,この新国立競技場の計画の責任者が誰なのかが良くわからない。
やたらと「責任」という言葉を自ら好んでいう某首相なのか,
身体が大きく,お話の面白い元首相なのか,
文部科学大臣なのか,コンペの主催者たる著名な建築家なのか,・・・誰なのか。
こんな調子で果たして2020年の東京オリンピックがきちんと開かれるのか。

今後,また別の新たな問題が出てきて,開催そのものが危ぶまれる事態になる可能性もある。
そもそも,東京は本当にオリンピック精神を理解し,尊重した上で開催地の誘致をしたのだろうか。
オリンピック開催による経済効果だけを求めて,招致に手を上げたのではなかろうか。
招致決定後にあれこれ問題が噴出してきている現状が嘆かわしい。
新の責任者不在の下,ぶれぶれの方針に右往左往する部下や現場の人の苦労を思うと,言葉が見つからない。

先の大戦においても,本当の責任者が誰だったのかが,実はよくわからない。
外国の目から見れば,一義的には昭和天皇のように映るが,実体はそうではない。
そもそも,明治維新は天皇が自ら起こしたものではないし,天皇は単なる印籠で,実権は天皇の裏で実権を握っていた薩長の人々だった。そしてその体制は太平洋戦争終戦まで続いていたのだと思う。

万が一の具合の悪いことが発生したときのリスクとして,本当の責任者がその責を避けるために,責任をあいまいにしているのが日本の体制の悪いところだ。与えられる権限と伴う責任がバランスのとれた,真に公平で明確な体制作りをした上で仕事を進めていかないと,正しくみのりある成果は得られない。
都合の悪い責任は回避し,得られる権限や利益だけ欲しがるよこしまな人間が跋扈するような国には未来はない。そのことは七十年前の我々の祖国の歴史が証明しているではないか。

この時点でゴタゴタしているようでは,本当に先が思いやられる。むしろ2020年のオリンピックは1940年と同様に返上した方がすっきりしていいかもしれない。
ただ一つ,1940年の真似をしてほしくないのは,その1年後に米国がらみの戦争に巻き込まれないことであるが・・・・


今日で「対馬丸事件」からちょうど70年。
沖縄から本土へ疎開する児童たちが多く乗った船が,米海軍の潜水艦に撃沈され,1600人以上が犠牲となった事件である。
この7か月後,沖縄戦が始まり,本土空襲が激化し,8月に二発の原爆を落とされ,15日に玉音放送にて太平洋戦争が終わる。

第一次世界大戦以降,戦争は暴力性をより強く帯び,戦闘員/非戦闘員関係なく無差別に攻撃を受けるようになっている。
幸い,1945年以降日本は,直接的には戦争に関わったことはない。あまりにも悲劇的な戦争体験の記憶が,戦争を忌避する姿勢になっているからだ。
しかし,先の大戦を記憶する世代がこの世を去りつつあるこの頃,戦争体験の記憶は徐々に弱まりつつある。また,世界情勢も変わり,戦争の姿も時代に応じて変わりつつある。

先人たちの過去の体験を無駄にせず,いかに戦争のない平和な世界を構築していくか,戦争の原因はなにか,その原因を除去するために何が必要か,現代に生きる我々はもっと真剣に考える必要がある。

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今日で第一次世界大戦開戦からちょうど100年。
戦争が軍人のみならず,一般国民まで駆り出される総力戦になったきっかけとなったのが,第一次世界大戦と言われている。
第一次世界大戦,第二次世界大戦を経験した人類は,その後は世界全体を巻き込むような戦争は一応行ってはいない。
戦争はコストパフォーマンスが悪く,やるだけ無駄だということが身に染みてよくわかったからだろう。
いまだに戦争状態の国の中に,いわゆる先進国はひとつもないことはこのことをよく示している。

ただ,戦争は行われていなくても,戦争の代わりに別のいろいろな争いは日常茶飯事で,世界のあちこちで起きている。
戦争とは何か,平和とはなにか,改めて考えたいものだ。
戦争が行われてないから平和とは限らない。
平和といわれているのが,本当の平和なのか,偽りの平和なのか。

今年で第一次世界大戦開戦から100年ではあるが,来年は第二次世界大戦終戦から70年の節目の年である。
あの戦争を実際に体験した人がどんどんこの世を去っている中,戦争と平和について先人達の貴重な経験を自分のこととして追体験し,後世に語り継いでいく努力をしていかないといけない。

同じ過ちを繰り返し,時間の浪費をして後世の人々に余計な苦労を負わせないために。





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