矢口十思夫の平成後期徒然よろずほぼ半旬記

身の周りの出来事から日本・世界のニュースまで、感じたこと、考えたことを自分の思ったまま率直に記すエッセイ/コラム。 2018年の更新頻度は不規則も,平均では5日に一度の頻度を維持予定。

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元号とは,もともとはその時代の権力者が,時をも支配するという意味で制定した制度であり,文字通りに捉えるならば,「その時の天皇の治世何年目か」という意味である。
しかし,明治時代以降,大正,昭和,平成の3代については,その時代の前の天皇が崩御,つまり亡くなった時点からの年を表すものとなっている。
つまり,大正10年ということは,「明治天皇崩御後10年目」
昭和20年ということは,「大正天皇崩御後20年目」
平成30年ということは,「昭和天皇崩御後30年目」
という意味でもある。
元号は,その点で,現時点の天皇と同時に,前の天皇によって支配されている時間ということも言える。
そう考えると,国歌とされている「君が代」,あの,よく言えば荘厳,あえて厳しい言い方をすれば重々しい雰囲気の音楽は,亡くなった天皇を偲ぶ葬送歌,といってもあながち間違いではないようにも感じる。
「君が代」は,世界各国の国歌と比較すると,その独特さに特別な美を感じる一方,決して気分が高揚する曲調ではないので,オリンピックの表彰式など,華々しく明るい場において「君が代」が流れると,何とも微妙な感じもするというのも正直なところである。

今回,平成の次の年号は,天皇の死を契機に代わるものではないので,大正以降初めて,「前の天皇の死によって支配される」ものではなくなる。日本が他国と戦争することもなく「平成」という時代が終わろうとしているのは本当に幸いなことである。「平成最後」という言葉が無邪気に使われるこの時,やや平和ボケの傾向も感じるものの,「平和ボケ」が許される時代であることの幸せもかみしめたいものである。

次回からは,平成時代を5年毎に振り返っていきたいものである。




「ありえない」「○○すぎる」このような表現を特に若い人から,あるいはメディア上で耳にする。
その人が普段想像している範囲にないことが起こったり目にしたりすると,思わずこう表現したくなるのだろう。
しかし,実際に,他者から冷静な目で見ると,そう表現された対象のものが,それほど大したことでないことがほとんどである。
厳しい言い方をすれば,安易に「ありえない」「○○すぎる」という表現を使う人は,
「自分は経験が乏しく,想像力も乏しい愚か者です」と公言しているようなものである。しかも,このような人に限って,自分を絶対化して傲慢,厚顔無恥であったりするから始末に負えない。

しかし,「ありえない」「○○すぎる」という表現を使わない人であっても,多かれ少なかれ,自分である枠組みを作り,その枠組みで物事を思考し判断するものである。その枠組みは人により大きかったり小さかったり,広かったり狭かったり,いろいろであっても。そして,どんなに大きく広い枠組みであっても,やはり枠組みには限界・境界はあり,枠組みの外には想像力が行き渡りにくいものである。

枠組み・・・いいかえれば「人知」,人間が有史以来積み重ねた知識・知恵の総合体とでもいえるだろうか。
その人知も、未知の範囲に比べれば限りなく無に等しいもの。
限りある範囲の中で知識、富などの多寡を比較し合うことに、どれほどの意味があるだろう。

人がすべてを支配しようとしても、人の目に見える「すべて」なんてたかが知れている。
人の目に見えないところに、人が決して支配できない存在があるのに。そして、その存在が人を支配していることを気付かずに。

「ありえない」ことなど本当はこの世にはない。だから希望を持って私たちは生きていけるのだ。


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